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留学にきてからというもの、いまの自分の位置というものを考えることが増えた。
具体的には、自分はなんで1年イギリスで勉強するっていう選択肢を選んだっけ、という疑問だ。

そしてその疑問はやがて、それに関するいまの自分の考えを、何らかの形で残しておかなくてはいけないような強迫感を僕に与えるようになった。

こうなったのには、きっと二つの理由があると思う。

一つ目は、「留学」という、今自分がしている行為に関する自分の考えだ。

「留学」という行為がどんどん一般化している。
留学が「キャリア」とか「グローバル」とか、なんかよくわからないけれどキラキラしたイメージと結びつけて語られるようになり、なんだか留学が崇高で素晴らしいものとして見られる傾向が強まっている。

そして僕は皮肉なことに、そんな中で留学をしている当事者でありながら、留学にまつわるそのような風潮がものすごく苦手だ。

もっとも、人がどんどん外に出ていくようになり、異文化での経験を持つことは決してネガティブなことだとは思わない。
ただ、最近は「とりあえず海外に出ればいい」みたいな風潮がある気がして、それはちょっと違うんじゃないかな、と思うのだ。

僕には、留学の一般化は、同時に留学の道楽化でもあるように見える。
留学することのハードルが下がり、留学することが決して特別な行為じゃなくなったことで、ある意味海外旅行の延長のような感覚で留学ができるようになった。
正直、資金さえあれば、一年ほど海外で過ごすことは何も難しいことではない。

そういう時代環境だからこそ、わざわざお金を使って、一年かけて留学をするということに対して、自分はしっかりとしたお堅い理由を軸として持ち続けなくてはならないと感じるのだ。

そして、その思いが強迫といえるほど強くなったのは、きっと僕が自分自身の中にも、留学に対するミーハーな感覚があることを感じているからなのだと思う。
「この留学は金持ちの道楽ではない」と思いたいけれども、どこかで道楽と捉えてしまっている自分がちょっぴりいる。

だからそんな自分を打ち消さなければ、と感じている節があるのだと思う。そしてそのために、留学しているお堅い理由に、文章という形を与えて残しておこうとしている気がする。

そして二つ目の理由は、将来の恐怖である。

別にこれは、自分が今後の人生について悲観的になっているとかいう意味ではない。
ただ、今自分が感じていることは、全く同じように感じることは二度とできないのだろうと思うし、そのことについて焦りのような怖さのような感情を覚えるのだ。

もっとも、あとになって今の自分を思い出すことはできるだろう。しかし、数か月、数年、数十年と時がたった時に振り返って見える今は、その将来の一点から振り返って見えるものに過ぎず、それは今の自分「そのもの」には成り得ない。
きっと今の自分というものは、これからどんどん時が流れるにつれ、どんどん違う存在になっていくんだろう。
だから、今ここで感じていることを、今の自分の目線で認識して形に残しておかないと、何も残らないんじゃないかという気がするのだ。

別に、どの時点から振り返った過去が一番本質的で正しいかなどという議論をするつもりはない。その時々の自分の立ち位置や積み重ねてきた経験によって、異なる過去の解釈と意味づけがあるだけだ。

でも、次のことは確実に言える。
今という地点から振り返って見える過去は、今の自分にしか見えない。

そのことに、なんだか妙に焦りと恐怖を感じるのだ。
だから、それがしょうもないものであったとも、今の自分の考えをとりあえず書き残しておかなくては、という観念が僕を覆うのである。

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整理といっても、僕がいまこうして残せるのは、筋が通って整った文章とは果てしなく遠い代物である。
でも、それでいい。

僕は、話というのは筋が通っていればいるほど嘘なんじゃないかと思う。

筋がまっすぐ通っている言葉というのは、それだけ筋が通らないものを排除してかろうじて成り立っているに過ぎない。
都合のいいものをピックアップして、それに言葉を付けて、論理を組み立てる。それで何かを理解して知った気になることには、常に多少の危うさが伴うものだと思う。
何かを理解するという行為は、きっと理解していないこそできるのだ。

だからここでは、筋とかそういうものをなるべく考えず、ひとまず今の自分が思いつくままに、今自分がここで人類学を勉強している理由をひたすら書き連ねてみたいと思う。

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さて今自分は何故、わざわざ留学をして人類学を勉強しているのか。
それを話すには、少し時を遡らなくてはいけない。

僕は高校生くらいのころから、紛争・対立や格差とった社会問題にけっこう関心を持っていた。

なぜかと問われれば、厳密にその起源を特定することは難しい(何かのきっかけって、案外そんなものである)。
ただ僕は、いわゆるスクールカーストにおいて割と下の方にいたから、学校生活を通して人間関係における力関係みたいなものを意識するようになったのは、要因としてあるかもしれない。あとは、父親の仕事の都合である程度の海外経験を積ませてもらったなかで、人種や経済格差についていろいろ考える機会があったのも影響しているだろうし、さらには高校の社会科でどっぷり左翼的な教育を受けたことも間違いなく影響しているだろう。

恐らくそれらの事情がいろいろと絡まって、僕に「対立や格差を解決する人間になりたい!」みたいないささか暑苦しくもある正義感を抱せた。そして僕は、その想いを胸に抱えて大学に入った訳だ。

ところが当時の僕は、自分の興味関心は自分の経験と視点から生まれ出た自分だけのものだと思っていて、それが既にある「学問分野」というカテゴリーのどこかにスッと行儀よく収められてしまうのが結構嫌がっていた。
あるいは、なにか特定の学問を修めるということに対する嫌悪感のようなものがあったようにも思う。

僕は、それぞれ○○学には「正統な○○学」みたいなものがあって、大学でその学問を学ぶというのはその正統な知識と認識を身に着けることなのだ、と感じていた(そして、この考えはあながち間違ってはいなかったと今も思っている)。だけど僕は正当なものを利口に教わるのではなく、自分で自分の関心・疑問を追究していきたかった。
だから一年生の段階で必修をみっちり取って「正しい基本を教わる」みたいなのは御免だと思っていた。

いま思い返してみると、我ながら非常にひねくれた考えの持ち主だったのだなぁと思うのだが(いや、きっと今でもそれは変わっていない)、一橋の社会学部という環境は、そんな僕にはまさにふさわしい環境だった。

一橋の社会学部は、決して社会学をやるための場所ではなく(もちろん社会学「も」やる)、社会科学・人文科学系の学問のごった煮空間といった感じである。
だから社会学や歴史学、人類学、心理学、哲学、政治学などなど、これでもかというくらい色々な分野の専門家がいて、学生はほとんど必修科目なしにそれらの学問の講義を自由に履修できる。

僕はそんな環境の恩恵にあずかって、「社会問題・対立の解決」というのを大まかなテーマに、いろいろな学問分野から興味深い内容をかじっていったのである。

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そしてそうしていくうちに、僕の関心が徐々に移り変わっていった。
対立や格差を”解決”することよりも、それら自体のメカニズムに興味をもつようになったのである。いうなれば、いま起きている対立そのものよりも、そういうことを起こしてしまう人間という存在自体についてもっと知りたいと思うようになったのだ。


僕はそれを、「動」から「静」への転換と呼んでいる。

僕は社会科学には、大まかに分けて動的なものと静的なものの二つがあると思う。
動的なものというのは、言い換えれば実務的な学問だともいえる。たとえば経済学や経営学、商学、法学、政治学がこれらにあたる。これらは資本主義社会、法治国家、あるいは主権国家体勢という「いま・ここ」にある秩序の中で、社会をどう回していくかに重点を置く学問である。
他方では、静的な学問、すなわち哲学、人類学、歴史学、社会学といったものがある。これらは、「いま・ここ」にある秩序・体系そのものを一歩引いた立場から見つめ、その自明性を壊していこうとする性格を持つ。これはあまりにも膨大な作業であり、前者に比べいつも必要とされている訳ではない。少なくとも既存の秩序が大きな問題なく回っている間は必要とされないだろう。実際、入試などでもこれらの学部の人気は低いし、「役に立たない」という評価を下されることも多い。
分野的に言えば、一応前者が社会科学、後者が人文科学ということになるのだろうか。

まあこれは大まかな分類に過ぎないが、このうち「問題の解決」に関心がある人が好むのは前者である。対立や矛盾を(解消はできなくても)最小限にして、現代社会をどううまく回していくか?そこが疑問の焦点となるからだ。

僕も例外ではなく、1年や2年のころは政治学や国際関係といった科目を好んでたくさん取っていた。
ところがだんだん、学びを進めるにつれて、僕は「動的」な学問に対してモヤモヤを感じるようになったのである。

動的な学問というのは、「今・ここ」にある近代社会の枠組みがある程度自明のものとして話が進んでゆく。
国際政治において国民国家という秩序は絶対だし、また経営学において利益の向上は「正しい」。だからこれらの学問において、それらに疑問を呈することはタブーである。
まあ、その枠組みをどう動かしていくかをメインに考える学問であるから、それはある意味で当たり前である。枠組みそのもの正当性が云々などと話し始めたら、まったく収集のつかない事態になってしまう。いま現在のこの社会を動かしていくためには、そういう風に考える人はいなくてはならない。

しかし僕は、どうやらその正当性に関する云々がとても気になってしまう性格のようなのだ。

資本主義・国民国家・民主主義といった、自分のまわりに「今・ここ」に存在している「当たり前」の近代的な価値観と社会のあり方。僕はなんだかんだその枠組みの中でそこそこ恩恵を受けながら生きているのだけれど、その価値観だけでで世界や歴史をジャッジして、すべて知ったような顔をしてしまっていいのだろうか?そんな疑問が僕を取り巻くようになったのである。

そもそも人類が誕生してから数百万年たつというのに、近代という枠組みはほんの数百年の歴史しか持たない。しかもそれはつい最近まで西洋だけの枠組みであった。
「非近代」の社会で生を営んできた人のほうが、「近代」のなかで生きてきた人々よりも遥かに多いのである。人間の対立や不平等だって、近代社会よりはるか前からずっと存在しているものである。
だから「近代」だけを、あたかもそれが唯一重要で正しいものかのように扱って、それ以前の長い長い歴史をバッサリと切り捨ててしまうのは何だか違うんじゃないだろうか?

むしろ僕にとっては、そんな風に「自分のあり方こそが正しく、当たり前なのだ」なんて想定することこそが、諸悪の根源であるように思えてならなかった。

そして、自分の目の前にある「常識」や、当たり前すぎて意識もしていないような考えは、どれほど自明なのか?
当たり前のように信頼している科学は、果たして宗教や信仰といったものよりどれほど「正しい」のだろうか?
「今・ここ」という空間は、時間・空間的に大きな広がりを持つ人間の営みのなかで、いったいどう位置づけられるのだろう?

いつしかそんな疑問が、自分を取り巻くようになっていった。

だから、視点を変えてみよう。そう感じた。

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もともと僕は、「自分がどう見られているか」というのを結構気にする臆病なところがある。
何をするにしても他人にどう見られるか、なにを言われるかというのを考えてしまうし、海外を旅行していても、自分が何を見ているかだけでなく、自分自身が現地社会からどう見られているかということもものすごく気になる。
僕は、その臆病さによって様々な行動の機会を逃してきたといえるかもしれない。でも一方でそれは、自分自身を様々な視点から見ようとするクセを僕に身につけさせてくれたと思う。

だから、この「近代」社会や、それを取り囲む考え方に対して疑問を抱えるようになったのも、そう考えるとあまり不思議なことではないのかもしれない。

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実は、結構前から(2年生の始めころからだろうか)このような疑問と思いを抱えるようになったのだが、かなり最近までそれはなんというか、言葉にできないモヤモヤとして僕の胸の中にあった。

これまで述べてきた違和感についても、3年になってから学びを進める中で、後付的にようやく言葉というツールで形を与えられるようになったのである。だから僕が「動」から「静」へ向かい、3年の初めに人類学系のゼミを選んだのも、実際には論理的に考えた結果なのではなく、「なんとなく」の思いで選択した結果なのだ。もっとも、「動」と「静」などという便宜的な分類さえも、自分を振り返る中で最近考え付いたものに過ぎない。
(実際、僕の人生における選択のだいたいは、リアルタイムにではなく事後的に言葉で理解することができるようになる事が多い気がする。「あ、あの時の気持ちはこうだったのか!」という感じでである。他の人にとってもそうなのだろうか。)

とはいえ結果から言うと、僕が選んだ人類学という学問は、そのモヤモヤを見事に説明してくれたのである。

最近の人類学の考えをを大まかにいえば、どの社会も根本的には似たような構造を持っているんじゃないか、というものだ。
つまり近代社会だって、所詮は人間が作り上げた考え方の集合で成り立ってるに過ぎないのであって、矛盾も暴力もある。その観点から、この「当たり前」で「正しい」とされがちな現代社会の枠組みを相対化しようという考え方である。

ほんとうに、ドンピシャだった。

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この人類学というものをもっと深く学びたい。いうなれば、その気持ちが留学の最大のモチベーションになっているといえるだろう。
一橋の社会学部は、色々な分野が広く学べて本当に大好きなのだが、それは同時に「広く浅い」という欠点がある。
だから、人類学という学問に絞って学びを深めるには、あまり適した環境とはいえない。
さらに、様々な生活様式・思考を取り扱う学問を深めるにあたって、日本よりも多様で、自分自身の在り方の自明性も低くなる環境に身を置きたいと感じた。

だから、人類学の先端でもあり、多様な人々が住む場所でもあるロンドンという場所に留学することは、人類学を深めるにあたって最適であると思ったのである。

もっとも、よく聞かれる疑問として、「人類学って何?」というのがある。
実は、これは難しい。自分では分かっているつもりでも案外言葉にするのに苦労するし、人類学の歴史の中で、学問の内容自体も少しずつ変わってきているからだ。
ただ、僕なりに現代人類学が目指している点を説明するなら、人類学は「人間社会でどのように文化や習慣、思考が生まれ、それらが関わりあっているか」を追求している学問だ。だから、けっこう理論的、哲学的な部分も多い。

そう答えたときに、以前「理論で人間のことが分かるはずないから、そんなの勉強しても意味ないじゃん」と言われたことがある。
しかし僕は逆だと思っている。理論で説明できないからこそ、学ぶべきなのだ。

人類学という学問は、僕に謙虚であることを教えてくれた。

社会科学の理論というのは、多くの場合、それが部分的に現実とマッチしているように見えることはあるが、その度合いは自然科学に比べて遥かに低いのは事実だ。
だから、次から次へと新しい理論が出てきたり、古い理論と新しい理論をいろいろ組み合わせてみたりして、身の回りで起きていることの説明を四苦八苦試みる。

そのようなことをしていると、人間の思考に完全なんてものは存在しないことがわかる。
結局どんな偉い学者でも、その時代、その場所を生きている一人の人間に過ぎないのだ。

人間はどんなに頑張ったって、基本的にこの五感しか持っていないし、未来や過去に行けるわけでも、他者になれるわけでもない。結局、「いま、ここ」にあるのがすべてなのだ。
それは、この世界の規模、歴史の長さを考えれば、本当に、どうしようもなく、小さい。

そんな小さな存在が、この大きな世界のすべてを知るなんて、できないんじゃないか。
(そもそもなにを「すべて」とするかだって、僕らが見聞きしたものの範囲内で想像するしかないのだ。)

「万能」な理論なんて、きっと人間には創れっこないのである。

(もっとも、人間は結局言語や論理をもって考え、社会を動かす。だから、人類学だって他の学問だって、いま人間ができる範囲であがくために必要なものなのだ)

人類学が僕に教えてくれたのは、知識を持つことに関して僕らが抱くべき、そのような謙虚さなのだ。

それは、科学的・論理的思考が当てはまる率が低い人間というものを対象にした学問を通してだからこそ、学ぶことができたのだと思う。

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僕が留学に来る前アルバイトしていた書店の教養書コーナーにあった、とある文句。僕はそれが大好きで、いつも仕事中レジから眺めていた。

「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」

「すぐ役に立たない」ことを学ぶことこそ、案外自分の中に長く残り、自分の芯を作ってくれるのかもしれない。

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とはいえ、「すぐ役に立つ」ことを学ぶことも、僕は少し考え始めなくてはならないのだろう。
いずれにしろ僕は、「いま・ここ」にある社会を一人の人間として生きていかなくてはいけないのだから。

現代社会において、人生における時間が不可逆な一直線としてイメージされているとすれば、ここ数年の僕はアリジゴクみたいな時間を過ごしている気がする。僕は、人文科学の沼にはまった一匹の小さな虫だ。

あの手この手で、僕は地上に出て社会の流れに乗らなくてはと動こうとしているのだけれど、人文科学が僕を下へ下へと持っていこうとする。
いや一番たちが悪いのは、穴の中でもがいていることに一種の居心地の良さを感じている僕自身だ。穴の中にこもっていれば、地上に吹き荒れる風とは無縁で済む。穴の中に隠れていることは、僕にとっての人生のモラトリアムでもあるのだ。

でも、留学したことで穴の居心地の良さをより深く味わうこともできたし、そろそろ重い腰を上げて地上に向かい始めなきゃいけないのかもな、と思う。

さて、今後の僕はどこへ行くのか。

そういえば「未来」というのは、人間がどんなにすべてを知った気になっても、決して知ることのできないものの一つだ。



by shuya1821 | 2017-03-13 09:04 | 自分自身について思ったこと